あれこれ

早見あかりさんのあれこれです。

新年度あるある「荷物多くなりがち♪」

※あかりちゃん要素ほぼ無いです


人が何かを「背負わされている」っていうのが苦手だと最近気づきました。
あかりちゃんが「物語」を背負わされていた頃から、そういった光景を目にする度にしんどくて、心苦しくて、つらいと感じていた気がします。

最近だと、好きな女性アイドルが「逆襲」だとか「反骨」だとかをテーマにした楽曲を歌っているのを観て、同じような気持ちになりました。

じゃあ、「天真爛漫」「きらきらした笑顔」「可愛らしさ」がお好きなんですね?と言われると……いや、好きですけど……
何というか、求めてるものが真逆(ほんとに逆かは分からんけど)なだけで、「背負わされている」という視点で考えたら同じようなことをしている気がして。

同性グループの中で、「ママ(パパ)」的な役割を自然な流れで与えられる(自分から担うこともあるのかな?)人がいるじゃないですか?他にも「イケメン」とかも近い感覚かなぁ。
あかりちゃんもそうだったし、今気になっているアイドルもグループ内では「ママ」的な位置にいまして。

自分の好きな人が、他の人からも好かれているのはとても嬉しいし、そういった関係から見えてくる部分も含めて魅力に感じているし、でも、その要素だけで好きになったわけでは無い。むしろ他がメインでこの要素はスパイスというか付け合わせというか、とにかく好きという気持ちの根幹にのなるものでは無い。
だから、そういう「キャラ」「立ち位置」によってその子の自由が制限されるようなのは、許せないというか悔しいというか、上手くこの感覚を言葉にできないんですけど。

なんか、この流れだと「逆襲」「反骨」≒「男性性」→女性が持つべきではないもの、女性の魅力には繋がらないものみたいな論理の展開に見えてしまう気がして怖いんですけど、そういったつもりは一切無いです。

もう少し大きな視点に戻して考えたいんですが、この「背負わされている」状況を作るのは誰かって考えたら、多分私(達って書いても良いですかね?)でしょうと。言い換えれば私(達)が「背負わせている」んじゃないかと。
それでなければ演出する側の人がそういったイメージを「背負わせて」お届けする感じですかね?
前述の「逆襲」「反骨」は正にお届けされたときに「ああ、またこういう……」みたいに思いました。「これが好きな人がいて、これに救われる人がいて、しかも決して割合としては少なくなくて」っていうのも分かっているけれど、釈然としない。

ここまでだらだら書いててふと思いついたんですけど、「背負わされている」ことその物が嫌なんじゃなくて、それによって「消費」「消耗」されることが嫌なのかもしれない。

制限された中でも、その子が楽しそうに出来てるならこっちも楽しく見られるし。

これ以上考えてもぐるぐる回るばっかりで進展しそうにないので、ふとした思い付きを精査せずに結論っぽくまとめちゃいましたが、皆さんはこんなこと考えたことありませんか?

もし良かったらご意見聞かせてください。